生産自動化専門委員会 精密工学会
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自動化技術の変遷

1)大量生産時代

2)ロボットの登場

3)自動化技術の現状

4)QoLの向上

  

精密工学会 専門委員会・分科会研究レビュー

趣旨・歴史

精密工学会 生産自動化専門委員会は長い歴史をもつ。2004年11月に専門委員会は「自動化の温故知新」を探る研究発表会を催した。同時に過去の例会・研究発表会資料をDVD化して刊行した。その際、準備した資料を元に委員会の歴史と自動化の歴史と将来とを眺めてみよう。(前委員長 新井民夫)

自動化技術の変遷

自動組立専門委員会が発足したのは1968年10月1日である。その前に、1963年〜1964年「自動組立に関する専門分科会」の活動がある。実に36年の長きにわたり、活動してきた。1995年には現在の名称「生産自動化専門委員会」へと改称した。本委員会発足当時の話は、牧野先生の稿に譲るとして、この35年余の変化について概観してみよう。

表1 専門委員会の歴史と委員長
年月 委員長(所属) 変更
1968年10月1日 ○自動組立専門委員会 設立
1968年10月〜 谷口 紀男 (東京理科大学)
1983年〜 牧野 洋 (山梨大学)
1994年4月〜 山藤 和男(電気通信大学)
1995年 ○生産自動化専門委員会に改称
1996年3月〜 岡部 佐規一(金沢大学)
1998年3月〜 高野 英彦(武蔵工業大学)
2002年3月〜 新井 民夫 (東京大学)
2004年11月 ○DVD発行
2005年5月 ○Homepage 更新
2008年2月〜 大隅 久 (中央大学)
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1)大量生産時代

第2次大戦後の日本の製造業はイトヘン・カネヘンから始まった。1960年からの所得倍増計画により一般大衆の購買力があがり、機械や電気製品の加工組立業は大量生産時代に突入した。昭和40年ごろである。ベビーブーマが大学入学年齢を迎えるこの時期は、日本全体が工業技術を重視し、工学部が増設・新設され、高学歴社会の始まりでもあった。そのころの大量生産体制を支えていた労働者は「金の卵」と持てはやされた中卒の集団就職者であり、東京オリンピックで活躍した東洋の魔女は紡績工場やトランジスタ組立のラインで働いていた。高度成長による大量生産体制の確立と高学歴化は常に人手不足感を煽る。それまで加工は機械で行っても組立は手組みが当然であった製造業で、大量生産によるコスト低減を目標として機械組立が始まったのである。その時期に自動組立専門委員会が設立された。

私は昭和22年生まれ、ベビーブーマである。大学入学が昭和41年で、重厚長大産業の全盛期であった。ロボット研究はまだ端緒に付いたばかりで、科学用計算機ですら大学にやっと入ったころであった。大学を卒業する昭和45年ころには計算機センターに大型計算機(とはいっても、今のパソコンよりもずっと小さい規模である)が入った。大学の卒論にもICが使えるようになったが、一方でトランジスタを使ってフリップフロップを自作する必要があった。私の卒論は産業用ロボットの設計開発であったが、精度も悪く、しかも、モータ出力が不足して、なかなか動かなかった。大学院では木下夏夫教授の指導で「丸棒丸穴の挿入作業解析」を行い、自動組立の研究で博士の学位を取得した。まだ大学院の学生ではあったが、自動組立専門委員会に顔を出し、先輩の前で発表を行ったのである。1970年代は自動化技術がまさに花形であった。

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2)ロボットの登場

さて、1970年台初めに石油ショックが起こると、高度成長も一度とまり、製造業も多品種中小量生産を議論するようになった。そのための救世主的存在が数値制御工作機械を用いたFAであり、ロボットであった。73年には日本産業用ロボット工業会ができ、油圧ロボットが自動車のスポット溶接を中心に使われ始めた。しかし、まだ位置決め精度も信頼性も低い時代で、組立ロボットとしての利用は困難であった。しかし、部品供給技術の進歩、機械組立向きに製品設計の改善、組立工程の解析など地道な努力が実って、徐々に機械組立が広がっていった。その中で、この自動組立専門委員会が果たした役割は極めて大きなものであった。70年代の終わり、牧野教授を中心とする研究グループがSCARA型ロボットを開発した。これは組立用にロボットを設計するというまったく新しい発想の機械で、これがキー技術となって電子部品組立など小物部品の組立作業が進展することとなった。1981年秋に晴海の国際展示場で開催された産業用ロボット展には一般の人も多数押しかけた。

その後、日本が「Japan as No.1」と賞賛されると、組立に関わる人たちも技術的に先端をいくシステム構築の開発を喜ぶこととなった。そしてバブルの時代を迎えるのである。バブルの時代は技術的にも多様な試みができた時代であった。自動車産業での様々な自動組立機器の導入、加工工程と組立工程の統合、知的な生産システムの試みなどがされた。ロボットの世界では、極限作業用ロボットが研究開発され、4本足で2本の腕を持つロボット(ただし、遠隔操作)がメンテナンス作業をデモした。

しかし、為替の変動相場制、国内市場の変動、アジア諸国の台頭、そして日本の金融行動の失敗などから、日本経済は力を失う。それまで賞賛されてきた日本の製造業の強みは逆に弱みになり、製造ラインの固定化が市場変化に対応できない原因であるといわれるようになった。バブルが崩壊し、様々な負の遺産が表面化し、90年代の価格競争時代を迎える。作業台の前に数人が並んで多品種の製品を個人の技量で組み立てるセル生産システムが中心となった。生産ラインの初期投資が高い自動化は罪悪とまで言われ、ベニヤ板とボードで作業台を作り、部品供給も人で状況にすぐに対応できる形で行えるシステムが良いとなった。自動化は罪悪とまで言われた。ロボットを使わないことが話題となったが、実際には品質管理や物流の急所でロボットが使われていた。

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3)自動化技術の現状

2004年現在、自動組立・機械組立は製造業では品質保証、ならびにライン立ち上げを短縮するための方法論として再度注目を浴びている。「生産ラインの世界同時立ち上げ」といった戦略が意味を持つ時代に、作業者の教育も必要だが、やはり安定的でデータをしっかりととることができる装置として自動化機器が再認識されているのである。また、医療関係を中心にいままでの手作業が機械化・自動化へと進んでいる。第3次産業の中での自動化要求も高まっている。いまや自動化技術は形を変えて重要な時代になってきたのである。

バブルの時代以降今日までの「自動化暗黒時代」はたった15年ほどではあったが、その間に、自動組立の創始者達(昭和40(1965)〜50年(1975)に年齢30〜40歳の人、つまり、1925年〜1945年生まれの世代)はどんどん退職している。いまでもバリバリの現役として活躍の技術士も多いが、しかし、メカ設計の経験が深い技術者数は極めて少なくなってきている。

ある技術が社会で注目を浴び、その技術を体得した人が育って四半世紀経つと、その世代は第一線から退く。技術自体もライフサイクルがある。加えて、製造業の世界的な移動があった。結果として、メカ中心の自動化技術は日本から消え去ろうとしている。

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4)QoLの向上

自動化の目的はなんであったのか。生産を自動化することで、安価な製品を作る、品質の良い製品を作ることであった。そのような製品を介して我々の生活を豊かにし、楽にすることであった。自動化技術は生産システムに適用するだけでなく、我々の生活に対しても適用可能である。実際、洗濯機、掃除機などが登場することで、機械化が可能となった。しかし、全自動洗濯機と呼ばれるものも「洗濯」-「乾燥」の工程を自動化しているだけで、その後のアイロンがけや折りたたみ、そして収納までを自動化しているわけではない。掃除機にいたっては、ごみ集め方法の機械化であって、掃除の機械化は実現していない。これからの自動化がこのような生活周辺の作業のように不定形の対象にあることはあきらかであろう。そのためには、今までの固い自動化からもっと知的な柔らかい自動化へと変わらなければならない。

いま生産自動化は不要であるかの風潮がある。多品種少量生産でかつ製品寿命が短いので、人手で作らなければ経済的にやっていけないと思い込んでいる。本当にそうであろうか。それを考えるために、我々の委員会は活動を続ける予定である。そして、生活の自動化を次の目標にして進めていきたい。

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(Last Updated on 08/02/03)